「天部信仰」について

 前回、この「お寺便り」の中で「天部信仰」について少し触れた経緯があるので、今回、改めて天部信仰について思うところを述べさせて頂きます。
 まず、「天部信仰は本道ではない」という考え方について。 恐らくは 天部の諸尊は仏法の守護神であるのであって、敬いこそすれ帰依するに値しないという考え方からきているのではないかと思います。
 しかし、仏教が起こる以前のバラモン教やその後身というべきヒンドゥー教の頃より存在していた神々、天部の諸尊はやがて大乗仏教に取りこまれ護法神となり仏教を護る存在として崇敬されていくようになり、更に密教の出現によって、画期的な存在となったのです。
 それは、顕教では天部尊はあくまで護法神たる性格にとどまるのに対し、密教においては本尊たる大日如来と本質において変りがないとされるのです。 あらゆる仏、菩薩、明王は大日如来の化身であって天部もその例外ではないのです。 これを「等流法身(とうるほっしん)」といいます。
 密教の曼荼羅会上には数多くの仏が描かれていますが、仏部、蓮花部、金剛部、天等の区別はあるにせよ根本的にこれらの仏に優劣があるわけではないのです。 この密教思想によって天部の諸尊は初めて本尊となることができたのです。
 顕教である日蓮宗では鬼子母神や大黒天等、天部を盛んに祈るが本尊は題目の曼荼羅であり、祈祷が盛んな禅宗においても豊川稲荷や秋葉権現が有名であるが、何れも本尊として祀られているわけではないのです。
 これに対して真言密教では先程述べたとおり、あらゆるる仏、菩薩、明王、天部尊であっても本尊とすることができるのです。 又、たとえ本尊が天部尊であってもよいし、本尊として祀られなくとも天部を祈願することも差し支えないのです。 又、現に天部の仏様を本尊として祀っている寺は多くはないがあります。
 このように述べてくると「天部信仰は本道ではない」という考えは密教の僧侶として甚だ理解不足と言わざるを得ないのです。
 但し、いくら天部尊が大日如来と根本的に等しいといっても、天部には天部の供養の仕方があるのです。 根本的には大日如来であっても、今、天部の尊として示現しているのですから、その対応は自ずと天部の神としてなされなければならないのです。

 天部には身分の高い、高貴な方に仕えるような忠誠心が必要といわれます。聖天さまも「お舅(しゅうと)さんに接するようにしなさい。尊敬の念を持って接するように、しかしあまりに恐れて親しみがないようではいけない。」等と伝授の時に教わったものです。
 又、お供物の一つ一つにも気を配り、行者自身が美味しそうだと思えるものをお供えする、そして何よりも聖天さまは穢(けが)れをきらうので行者も体を清浄にしておかねばならない等、種々の制約も多くあります。 葬式、法事をしなければならない多くの滅罪(めつざい)寺院に於いて天部の祈願を行うことは現実に仲々、難しい面もあります。
 しかし私は種々の制約を乗り越えても直、天部の尊が好きなのです。 これは仏縁だと思います。
 大分、話が長くなりましたが、私の言いたいことは、縁のある仏さまと真摯(しんし)に向き合い、会話をする中で私達の修行がなされていくのではないか、そして現当二世というが、現世利益のための祈願も立派な仏道修行に通じるものであると思うのです。
 私はたまたま聖天さまと巡り合ったわけですが、それぞれに、縁のある仏さま、いわゆる別尊の中から普門総徳の如来を感じることができるというのが密教の考え方でないかと思います。 そのためには、我々密教の僧侶は縁ある仏さまとの「修法」を行じ、仏さまを輝かせて行かなければならないのではないかと思います。それでなければ真言に身を置く価値がないのではないかと思います。
 大分、偉そうな話になりましたが、天部に限らず諸仏、諸尊と自己との交流を図っていくことが必要であり、その極め付けが聖天尊を始めとする天部信仰ではないかと思います。
 何故ならば、天部は直ぐに答えを出してくれるからです。打てば響くのです。それが本当かどうかは、興教大師の言葉を借りれば正に「自ら修して知れ」ということになります。

※文中の仏画は「新纂佛像図鑑」より掲載しました。

合掌
2013年7月16日