平成28年丙申(ひのえさる)閏年の年頭にあたり

 大晦日、午後11時45分より除夜の鐘の法楽(ほうらく)の後、第一鐘を撞(つ)き、元日午前0時を期して元朝不動明王護摩供を修し、その後3時間程の仮眠をとり、午前8時より地元町会主催による「元旦参り会」の接待を行い、午前10時頃、やっとお雑煮(ぞうに)を食べホッとする一時(ひととき)を迎えます。
 そして元日の夜7時に聖天香湯供(こうとうく)を行(ぎょう)じ、2日の午前3時より聖天浴油供(よくゆく)に入り結願(けちがん)は7日となります。 これが毎年行っている私の正月のタイムスケジュールであります。

 年末年始の日程は年を重ねるにつれ体も少々しんどくなりつつありますが、最後は気力だと自分に言い聞かせ少しでも長く浴油供を修していきたいと念願しているこの頃です。
 行(ぎょう)を修していると、色々な思いが頭に浮かびます。今年はこんな事を思いました。
 私達真言宗の教えの基本は教相(きょうそう)と事相(じそう)です。 教相は分かり易くいえば学問、理論であり、事相はこれを信じて行う実際の修行、行法をいいます。 教相と事相は分(わ)けて考えるのではなく、車の両輪(りょうりん)の如(ごと)し、どちらか片方だけでは仏の境地(きょうち)を得ることはできないと教えられました。
 理論上は勿論その通りであると思いますが、誤解を恐れずに言えば、私は先に事相があって教相があるのではないかと思います。 教相も無論大事なものでありますが、行をしないことには一歩も前に進むことができないからです。 「鰯(いわし)の頭も信心から」ではありませんが、先(ま)ず信じて行ずることが先決であると思います。 そして、それを証(しょう)する大事な役割が教相であるのではないかと。
 「法験(ほうけん)とは「入我我入(にゅうががにゅう)とは」 こんな言葉が頭を過(よぎ)りますが、一体こんなことを真剣に考えて日々宗教活動している僧侶がどれ程いるのか(ちょっと言い過ぎですね)。 "営業"を抜きにして "自行(じぎょう)"として祈祷(きとう)や修法をする意味や価値を若い僧侶に教えていかなければ真言宗の発展もおぼつかないものになるのかなと思います。 「真言行者」という言葉が死語にならないように願うものであります。
 興教大師(こうぎょうだいし)の言われた「自(みずか)ら修(しゅう)して知(し)れ」という言葉の意味を重く感じるものです。
 自ら修して。覚(さと)ったものが初めて「教化(きょうか)」というものに繋(つな)がっていくのではないか。ただ教化、教化と唱えても「絵に描(か)いた餅(もち)」になるのではないかと思えてきます。
 いつの時代でも、この辺が難しいところかなと、又それぞれに生活の大事さもあるし等と思いつつ、私は今年も聖天法に現(うつつ)を抜(ぬ)かしていきたいと思っております。

合掌
2016年01月01日