軍荼利明王を奉祀

 約半年の製作期間を経て、4月14日、京都より軍荼利明王(ぐんだりみょうおう)のご尊像が聖天堂にお祀りされました。仏師は以前、愛染明王 を彫刻した人で京都の仏具店お薦めの仏師です。
 (軍荼利明王はグンダリンの音写で水瓶あるいはとぐろを巻いた蛇をいい、甘露(かんろ)をいれる壺という意味ももっている。その姿は一面三目八臂の姿で、2本の腕で交差する大瞋印(だいしんいん)を結び、他の腕には武器や斧(おの)を持ち、顔は三ツ目でとぐろを巻く蛇を身に纏(まと)っている)
 何故、聖天堂にこの軍荼利明王を奉祀するのか。少し専門的な話になりますが、聖天尊は毘那夜迦(ビナヤカ)と十一面観音が合体した神(仏)でありますので、行者の拝み方によっては実天(じってん)である毘那夜迦の強力な性格が表に出る場合があります。聖天としてではなく障礙神(しょうげしん)としての性格が。
 そこで毘那夜迦の力を抑制するのが軍荼利です。 軍荼利は常随魔※1)ビナヤカを降伏(ごうぶく)する本誓をもっています。ですからビナヤカの障礙をなくし、本来の仏法守護神たる天尊として活躍して頂くために軍荼利を祀るのです。
 聖天真言の「オンキリクギャクウンソワカ」のキリクは十一面観音、ギャクは聖天、ウンは軍荼利を表しています。十一面と軍荼利は聖天と一つなのです。聖天を信仰する者は十一面と軍荼利も同時に信仰し、常に意識してこの真言を唱えるようにしたいものです。ちなみに、この真言は権実の真言であり、「オンギャクギャクウンソワカ」は両実双身の真言とされています。
 ここで聖天信仰について考えると、聖天は権実二天※2)が持つ強力な力ゆえに他の仏では叶(かな)えてくれぬような願いでも全て叶えてくれるというご利益絶大の神(仏)として人気がありますが、それは方便行であり仏法守護神である以上、「仏法を信じ人として有益な生き方をするよう」お示しされるのです。拝めば直ぐご利益をくれるという短絡的な考えでなく「衣食足りて礼節を知る」ということを示されているのです。
 ですから私の聖天信仰においても、後で振り返ると全て聖天尊の図らいだったと感じるのであって、ちょっと拝んだからといって直ぐ結果を出してくれると思うのは如何(いかが)なものかと思います。しかし「ここぞ」という時には答えを示してくれる神(仏)であると思います。これは私だけでなく他の聖天行者も同じようなことを言っているのでまちがいはないと思います。
 聖天尊に魅(み)せられて早や30年以上の歳月が流れました。最初は寺の発展のみを祈ってきましたが、今は国家の安寧(あんねい)と真言宗、当山の興隆そして信者さんの幸せを祈る毎日です。ご供養したからご利益を頂くという考えではなく、純粋にご供養すること自体が大事なことであると思えるようになりました。
 仏像を祀(まつ)るということは基本的に祈願ではなく供養する心、供養させて頂く心で、仏と心を通(かよ)わせていくことが肝要かと思います。これからは、聖天堂須弥壇中央の十一面観音、そして隣に新しく軍荼利明王をお祀りし、聖天尊と三位一体(さんみいったい)の境地でご供養申しあげていく所存です。

合掌
2016年04月28日

※1 常随魔(じょうずいま)
 「毘那夜迦は常に一切有情に随逐して障難をする故に常随魔と名づける。 ~中略~ このような毘那夜迦の障難を除くのはただ観音と軍荼利だけである。 故に諸障難あり所求不如意の人は大日、並びに観音、軍荼利に帰依してこの天の像を浴すれば一切の障難は自然に消滅する」と説かれている。(含光記より)
※2 権実二天(ごんじつにてん)
 実天(じつてん)とは実類(じつるい)の天、即ち「大自在天(だいじざいてん)の魔王(まおう)たる毘那夜迦」をいう。 権天(ごんてん)とは権類(ごんるい)の天、即ち仮の姿をとって表れるという意味で、「十一面観音が仮に毘那夜迦の女天の姿に化身していること」をいう。

軍荼利明王聖天堂須弥壇に祀られた軍荼利明王