年末年始雑感

 33歳の時より聖天供を始め今年で39年、来年の5月で丁度、40年を数えます。
 改めて振り返ると「随分、長い間、聖天さまを拝んできたんだなぁ」という感慨と共に、拝み始めた頃と聖天さまに対する気持ちは殆(ほと)んど変ってないように思えます。本堂建立の祈願から始って様々なお願い(ほとんどが寺の 興隆に関わるもの)をして、その全ての願いを叶(かな)えさせて頂きました。誠に有難い感謝の極(きわ)みでありますが、一番のご利益は70歳を過ぎてもこうして浴油供の行法を続けていけることだと思います。
 聖天さまは人を選ぶといわれていますが、こんな私でも少しは聖天さまのお眼鏡(めがね)に敵(かな)ったのかなといつも自問しています。
 2年前にこれも天尊のお導きにより境内を拡張し、そこに不動堂を建立いたしました。毎月28日の護摩供(正月は三ケ日護摩供を厳修)と月の初めより7座の聖天供を併修して行っていますが、少しでも密教僧としてやるべきことをして行きたいと念じています。
 今、真言の寺で常に行法をしている寺は余り聞きません。成田山や川崎大師等の本山級の寺では毎日、護摩修法を始め住職や職員が何がしかの行法を修していることと思いますが、一般の寺では壇の礼盤(らいはん)に座るのは施餓鬼の時くらいかと。あとは朝のお勤めで理趣経を読む位かなと思います。
 「しかるに今、肝心の行法を怠(おこた)っていて、ただ読経ばかりでは、お大師様が御指摘されたように薬の効能や処方をのべるだけに終り、それでいわゆるお勤めがすんだように思っているのは真言行者として迂闊(うかつ)も甚(はなは)だしいと言わねばならぬ。しかるにまた行法するのには、あたかも期間を限って練行する加行者や、求聞持法、八千枚護摩法の行者などのように斎戒(さいかい)淋浴(もくよく)せねばならず、肉食妻帯の凡愚(ぼんぐ)の生活ではとても不可能で、隨って悉地(しつち)も成ぜぬのではないかという疑念に迷うが、行法とは決してそんなに人間離れをしなければ行ぜられぬものではない。煩悩具足のまま直(ただ)ちに仏光に照らされる秘法こそ真言密教の行法なのである。.......要は平生に行法を行うことである。行法は真にそのままで仏と感応し道交する秘法である。」と。(「加持の実践」 三井英光著作集より抜粋)
 引用が長くなりましたが、真言密教の骨髄は神秘体験に尽きるといわれており、それを体験するには「三密瑜伽(ゆが)法」、即ち行法をもってすることが肝要であります。
 私は聖天さまに巡り合い、聖天供を通して仏道を歩ませていただいているつもりです。それぞれ縁のある仏さまの行法(一尊法)を修し三摩地(さんまじ)の境界を目指(めざ)していく僧侶(特に若い方達)が増(ふ)えていくことを期待するものです。

初雪の不動堂本 堂山 門聖天壇

(閑話休題〉
 年末は掃除に追われます。本堂、聖天堂、不動堂、閻魔堂の掃除。年齢の割には、まだある程度、体の自由が効くので暮れには日程を分けて区切りをつけながら掃除していきます。
 考えてみると掃除は昔から云われているように自分の心を清めることが第一番目の目的であり、修法する準備として大切なことです。
 掃除が終ると次は供物の準備です。正月中はお店が休業になるので日持ちする供物をまとめ買いします。護摩供はそれ程、特別な供物はないのですが、聖天供はお団、大根,和酒、甘味の菓子等、お供えするものが厳しく決められています。特に大根は正月中、店が休みになると入手できなくなることもあるので仲々大変です。
 ここ数年の間、農家をしている総代さんが浴油の前日、採(と)りたての大根を2本ずつ毎回、届けてくれるので大変、感謝しています。毎回、新鮮な大根をお供えできるので聖天さまもさぞ喜んでおられることと思います。
 甘味のお供物も時間のある時は必ず自分で店に行き、美味しそうなものを自分の目で見て買っています。「今日はお口に合いそうなものが買えた」(笑)と。
 思うに聖天さまのような天部の神さまは素直な心で、偽(いつわ)りのない正直な心で接することが大事であると思います。
 掃除でもお供物の調整でも行法の一部であると思いながら準備をする。行法の時間だけでなく、その全てを見て頂いていると思っています。
 これからも一年でも長く聖天さまにお仕えし、浴油の誠を示していけたら幸せであると思う今年の正月でした。コロナの終息と皆さまの幸せを心より願いながら。

合掌
2022年01月13日